
日本には8000以上の少年サッカーチームやスクールがあると言われています。更に、それと同等以上の数でサッカーの指導者が存在します。しかし、そういった指導者の実態は、各チームに所属してみないと分からないのが現状です。
そこで、マイボ!編集局がインタビューし、彼らの指導を明らかにしていきたいと思います。これにより、少年少女達のチーム・スクール選びや、日本のサッカー育成界に貢献することが目的です。
今回は、A.Cカヴァレイロの大島孝弘さんにインタビューさせて頂きました。
A.Cカヴァレイロ:大島 孝弘監督
中学卒業までは、野球少年として過ごす。高校には野球推薦で入学するも、不思議な縁でサッカー部に入部。リフティングも満足に出来ない状態から、真剣にサッカーに取り組む。レギュラーにはなれなかったものの、高校3年間のサッカー生活では飽き足らず、ドイツへの留学を決意。ドイツではチームと契約まで至るが、より大きな成長を求めてブラジルへ。ブラジル内の20歳以下のユース大会に出場するほどの成長を遂げるも、ビザの関係で帰国。21歳で引退した後、10年間サラリーマンとして働く。そこで、またもやとある偶然からサッカーと触れ、サッカー界にとって何が必要か真剣に考え始める。エージェント機能と育成機能を兼ね備えた新しい組織の必要性を感じ、独立。現在は、育成を中心に活動しながら、選手の発掘も行うなど、幅広く活動を展開している。
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野球からサッカーに転向した意外な理由

Q.サッカーを始めたのはいつですか?
15歳の時に始めました。かなり遅い方です。
Q.小学校からサッカーを始める人が多いですが、どういったきっかけで15歳からサッカーを始めたのでしょうか?
15歳までは、バリバリの野球選手でした。中学校が野球の強豪校だったこともあり、野球推薦をもらって高校に入学しました。しかし、内心は自分が野球では一流にはなれないのではないかという不安も抱えていました。そんな中で、高校入学直後に、私の友人が勝手にサッカー部に入部届けを出すというアクシデントがありました。普通は、野球推薦をもらって入学しているのだから、サッカー部への入部を拒否して、野球部へ入部するのでしょう。しかし、先にお伝えしたように、野球で一流になれないと思っていたので、このアクシデントをきっかけにサッカーに転向しようと思いました。
Q.野球で一流にはなれないと思った理由は何だったのでしょうか?
中学校が野球の強豪校だったので、私と同じように野球推薦をもらうような選手が多くいました。野球にはかなり真剣に取り組んでいたからこそ、彼らを見ていて「これは勝てないな」と思うようになってしまったのです。
高校から初心者として始めたサッカーとの向き合い方

Q.そんなアクシデントをきっかけに入部したサッカー部にギャップは感じなかったのですか?
ギャップを感じるところと、感じないところがありましたね。入部してすぐに1時間走をやらされました(笑)そういったように、練習はかなり厳しいものでしたが、野球でも非常に厳しい練習に耐えていたので、練習の厳しさはそこまで苦にしませんでした。それよりも、サッカーの技術が足りていないことの方が問題でした。それこそ入部当初はリフティングを10回もできないレベルだったので。普通は走り込みなどがきついと思うのでしょうが、私はボールを使った練習が怖かったです。練習中はボールが来ないで欲しいって本気で思っていましたから(笑)おもしろいエピソードとしては、サッカー部に入部してから足が左利きだと初めて知りました(笑)野球は右投げだったので、足も右利きだと思っていたのですが、先輩に「左で蹴っているよ」と言われて初めて知ったのです(笑)そんなレベルですから、技術的なギャップは強く感じていました。
Q.大島さんがサッカー部に所属している期間に、チームは強化されていったのでしょうか?
そうですね。私たちの代で強豪校が多い千葉県でもベスト16までいきました。更に、それまではサッカー推薦をとっていませんでしたが、徐々に結果が出始めたので、サッカー推薦をとるようになりました。このように強化されているサッカー部に、素人の私がいたものですから、最終的にはレギュラーになることは出来ませんでした。
Q.高校からサッカー始めたのであれば、レギュラーは難しいですよね。気持ちは折れなかったのですか?
折れなかったです。むしろサッカーへの情熱は日に日に強くなっていました。元々は負けず嫌いなので、やれないとか出来ないというのが、純粋に悔しかったです。そのため、高校3年間はレギュラーになれないながらも、ずっとサッカーを上手くなりたいと思い続けていました。サッカーを辞めたいと思ったことは一度もなかったです。
周囲からの反対を押し切り成功させたドイツ留学

Q.高校卒業後はどういった進路を選びましたか?
ドイツに留学をしました。ドイツでアカデミーに所属しながら、サッカーをプレーしていました。
Q.サッカー部でレギュラーになれなかった選手が、ドイツ留学をするということは、周囲から反対があったのではないでしょうか?
もちろん、大半の人が反対しました。まずは親が大反対していましたから。それでも、サッカーを諦めきれなかったので、どうにか説得して納得してもらいました。私は諦めが悪いみたいです。周囲の部員を見ても、私より上手い選手でも、割と簡単にサッカーを諦めていました。それを見て、私は不思議に思っていました。先にお伝えしたように、サッカーが上手くなりたいと思う気持ちはずっと強かったので、高校でレギュラーになれなかったからといって、諦めることは到底出来ませんでした。当時は、ドイツ留学を斡旋する業者もいなかったので、親に協力してもらいながら、領事館に電話するなりして、留学の手続きを行いました。
Q.そこまでのチャレンジをできたということは、ドイツでもやっていける自信はあったのですか?
いや、全くないです(笑)自信があるかどうかではなく、サッカーを教わってもっと上手くなりたいという純粋な気持ちのみで挑戦しました。
Q.実際、ドイツ留学ではどうでしたか?
ドイツのカッセルという街に留学したのですが、そこにはFCカッセルというチームがあります。最初はアカデミーに所属しながら、サッカーをやっていたのですが、ある時にふと「FCカッセルと契約しないか?」と声を掛けてもらいました。それを機に、アカデミーを辞めて、サッカー一本に絞ることができました。このように、意外と順調に留学のスタートを切れました。
Q.すごいですね。FCカッセルには何を買われたのでしょうか?
私の俊敏性を買われました。ドイツ人は大きくて強い選手が大半なので、そういった隙間を縫ってプレイすることを求められました。
Q.FCカッセルの在籍期間はどのくらいですか?
契約期間を全うして、更新の打診を受けたのですが、それを断ってブラジルに飛びました。ドイツにいた期間としては、1年弱くらいになります。
更なる高見を目指してブラジルへ

Q.ブラジルに飛んだんですね!順調だったFCカッセルの選手生活を捨てて、ブラジルに行こうと思った理由はなんですか?
当時、現地にいた日本人のサッカー留学をしている人がいて、その方がブラジルでサッカーをやっていた経験をもっていました。その人が、私のサッカーはドイツよりもブラジルの方が、スタイル的に合っているのではないかと言ってくれました。それを受けて、ブラジル留学をしようと思い立ちました。
Q.すごいチャレンジ精神ですね。ブラジルで所属したチームはどこだったのですか?
バヘットスというチームに2ヶ月。その後は、カピバリアーノというチームに所属していました。
Q.ブラジルに行ってみて、ドイツとどちらが合っていると思いましたか?
ブラジルの方がプレー的には合っていると思いましたね。当時のドイツは、プレーの一つ一つが早くて固定的でした。一方、ブラジルは、DFも含めて全員がアイディアを出しながら、サッカーをやるので、それは私に合っていたように思います。ブラジル人の発想力は本当に凄くて、「その手があったか!」と思うことばかりでした。例えば、ボールを競り合おうとすると、走り出す直前に足を踏まれたりします(笑)もちろん、フェアプレーではないですが、そもそもそんな発想すらないので、驚いていました。
Q.ブラジルはよくハングリー精神を言われますが、実際のところどうなのでしょうか?
それは、本当にその通りです。毎日のように飛び込みで、練習に参加を希望する選手が来ますから。そんな彼らが、人生を賭けてプレーしているので、他国におけるサッカー環境と比べるとかなり特異だと思います。また、仮に入団までいったとしても、ユース年代ですら選手を解雇しますからね。ブラジルサッカーは凄まじい競争の中にあるので、ブラジル人選手が上手い理由がよく分かりました。また、ブラジル中にエージェントがいて、優秀な選手を色んなチームに送り出しています。この機能のお陰で、ブラジルには優秀な選手がいれば、しっかりと出世する仕組みが出来ているとも言えます。
Q.ドイツ留学を成功させ、ブラジルでは自信を持ってサッカーをしていたのですか?
いや、全く自信はなかったですよ(笑)プロ契約をしてもらえると思ってもいなく、あくまでサッカーが上手くなりたいという純粋な気持ちで挑戦していました。ドイツと比べても、ブラジルでのプロ契約は敷居が高いです。皆、人生賭けてサッカーをやっているので、その気迫と技術力の高さを考えると、プロ契約は難しいと思っていました。ただ、20歳以下の大きな大会があるのですが、そこで予選に出場出来たのは良い経験でした。ある程度通用していたので、本線でも起用してもらえそうだったのですが、ビザの関係で参加できませんでした。そして、遂に帰国することになりました。
選手を引退してから、再びサッカーに大きな夢を抱くまで

Q.帰国後は、どうしたのでしょうか?
日本のJリーグチームで練習参加などしましたが、結果は駄目でした。その後、J2やJFLのチームなど、1年半に渡り挑戦しましたが、結果は出なかったので21歳で引退を決意しました。
Q.その後、サッカーを引退して何をしていたのでしょうか?
ずっとサッカーを追いかけていたので、引退後はぽっかりと穴が空いてしまいました。しばらくフラフラとした後に、サラリーマンを始めました。そんな理由で始めた仕事ですが、10年間近く働きました。
Q.それでは、どんなきっかけでサッカーに戻ってきたのでしょうか?
本当に偶然でした。会社が関わっていたサッカー番組があり、そのキャスターを探していたのです。その時、たまたま私が指名されました。そして、サッカー選手とも会って、話すようになってから、私の中で再びサッカーの存在が大きくなってきました。
Q.なるほど。サッカーと触れるようになったとは言え、選手になるのは難しいと思います。何を考え始めたのでしょうか?
サッカー選手と話している中で、エージェントの存在は非常に重要だと思うようになったのです。サッカー選手にもそのようなニーズがあることは分かりましたし、私自身の経験からもそれは言えることでした。私のサッカーのキャリアにおいて、ターニングポイントでは必ずキーマンがいました。彼らは私に道筋を示してくれると同時に、時には斡旋の手伝いもしてくれました。これがあったからこそ、チャレンジ精神旺盛な私のキャリアは築けたと思います。また、ブラジルで見たエージェント機能がいかに素晴らしいかも分かっていたので、尚更にエージェントこそが今の日本サッカー界に重要なものだと思うようになりました。
Q.日本では、エージェント機能が発達していないのでしょうか?
そんなことはないです。ただ、狭い島国である関係上、必然性は他国より格段に低くなってしまっています。そのため、緩いスカウト網でも何となく成り立ってしまうところがあるのです。選手を見つけ、育成し、プロになる、海外に挑戦する、という一連の流れが、しっかりとは出来ていません。それ故に、私はまだまだ日本国内に才能は眠っていると思っています。そのような選手を見つけ、育成し、デビューさせる、というところまでやってみたいと考えています。また、それとは別の問題として、選手にとって有利な契約を結んでもらうということも重要だと思います。今、日本ではチームの力が強いので、どうしても一方的な契約になりがちです。海外選手が日本にきた場合、非常に高い金額になるのは、エージェントがしっかりしているからです。そのような機能を、日本に確立したいと考えています。
Q.なるほど。今、サッカーチームを運営されているのは、どういった理由からでしょうか?
それは、純粋に子供たちのためにです。私は幼少期にしっかりとサッカーの指導を受けていないので、質の高い育成を提供したいと考えています。また、先ほどの話と絡めるなら、「育成」の面を確立するという意味合いもあります。単に選手を売り買いするようなエージェントにはなりたくなく、しっかりと選手を育成できる存在である必要があります。
Q.大島さんの挑戦はまだまだ続くのですね。
そうですね。結果は伴いませんでしたが、高校からサッカーを始めて、21歳で引退するまでは本当に挑戦の連続でした。この挑戦は、様々な人の支援があったからこそだと思います。だからこそ、サッカー選手やそれを目指す子供たちの挑戦を支援したいという思いは非常に強いです。A.Cカヴァレイロとしての育成でもそうですし、エージェントとしての活動も、全ては選手の挑戦を支援したいという思いから来ています。選手の挑戦を支援する「挑戦」は、今後も本気で取り組んでいきます。
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